自分ができないから、

もしくは、

自分がしたくないから、

と言って、

まじめに取り組んでいる人の努力を

笑うべきではないし、ましてや笑うなんて

とんでもないことだと思います。


小学生も、高学年になると、子ども達自身が、

自分は できる、できない、を

自覚して そのように振る舞うようになる。


その、できる子たちを捕まえて

思った通りにできたレッスンに

「自分が教えた」ということの意義を見いだせるのか?

レッスンがうまくいくのは当たり前で、

それは、先生の力量ではなく、子ども達の力量なのだ。


ならば、

小学校の高学年に できる と思える子どもに育てる

というところを目標として、

育てていくところに、意義が見出せるのだと思う。


それは、時に、ざるよりも目が粗い、

目がない枠に、水を注ぎ込むような

徒労感にあふれるものになるかもしれない。


でも、そうなのだ。

わかっていたことじゃない。


それでも、

その子の明るい未来を思い描いて

自分のしていることを精査しながら、

進むしかない。


そういう仲間がたくさんいる。

つながれていないだけで、

思いを同じくしている人は、

きっとたくさんいると思う。


幼児に教えること、

それは、

可能性を信じて、

温かい心をもって接して、

子ども達の 心身の成長を促すこと

なのではないだろうか。


そこを、「いじくりたくないから」という

もっともらしくて、よくわからない理由で

自分のことを正当化しながら、かかわらない人を私は、信用できない。

できる、できない じゃない。

やらなくては いけないこと なんじゃないだろうか。


ときどき出会う、

低学年なのに、すでにシニカルで、破壊的な思考と行動をとる子

に会うと、

これからの接し方の難しさを感じると同時に、

どうして、ここまでになってしまったんだろう

と、その子を知りたくてたまらなくなることがある。


もつれている感情の糸を解きほぐしていきたい、と思う。

往々にして、時間切れで できないのだが、

いつでも、「どうして?どうしたらいい?}

は、問いかけていきないと思う。



今 あなたが取り組んでいる仕事は、

あなたじゃない人でも、できることかもしれない。

でも、それは問題じゃない。


「自分がそこに、何をつぎ込めるか」

ではないだろうか。


注ぎ込む勇気もない 外野に座っている人に、

やいの やいのとは、言われたくない。


そんなことを思わせる 人や文章との出会いがあった。

ありがたいことだと思う。


youko